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モンゴルの歴史

 モンゴルの歴史は、紀元前2世紀に秦の始皇帝を脅かし“万里の長城”を築くきっかけとなった匈奴にさかのぼります。その後、北魏を建国、13世紀にはユーラシア大陸の大半を治める大帝国“モンゴル”を樹立し、中国には“元”を建国しました。

”蒼き狼”チンギス・ハーン(成浩思汗)はモンゴルの諸部族を統一し、初代大ハーンの位に着き、帝国繁栄の礎を築きました。その子孫はユーラシア大陸の各地に四ハーン国を樹立し、モンゴル直轄地を中心として、ユーラシア大陸の大半を占める史上空前の大国家を樹立しました。

 モンゴル帝国の都は、カラコルムにありました。四ハーン国の一つで、チンギス・ハーンの末子トゥルイの子、フビライが建国した“元”は、中国の大都(北京)に都をおきました。その他、250年に渡ってロシア支配した、キプチャク・ハーン国や、 中央アジアのモンゴル王朝である、チャガタイ・ハーン国、さらには、西アジア(イラン)のモンゴル王朝である、イル・ハーン国があり、モンゴル帝国の広大さが想像出来ます。

 “モンゴル帝国”滅亡後は中国の支配下が続きました。20世紀に入ると、清朝は北方の自国領の人口密度を高くすることでロシア側の侵略を防ぐ政策を実施しました。その結果、内モンゴルでは、遊牧地が漢人により耕地に変えられ、モンゴル民族の中で、反漢・独立感情が高まり、反漢暴動が頻発するようになりました。中には貴族のトクトホのように「馬賊」となり、漢人襲撃を繰り返す者もいたそうです。その一方で、知識人ハイシャンらは、漢人商人の活動には、反発を覚えてはいましたが、外モンゴル地域と連携して独立を達成することを画策し、外モンゴル貴族のツェレンチミドらと協力して、外モンゴル諸侯に独立のための説得工作を行っていました。

 1911年に辛亥革命が起こり、清朝が滅亡すると、ハイシャンらの説得工作が功を奏して、ロシアに独立のための財政援助を求めていた、外モンゴルの王侯達は、清からの独立を宣言しました。

 独立に際して、当時、モンゴルのチベット仏教界で、最高の権威であり、民族のシンボルであった、化身ラマ(活仏)のジェプツンダンバ・ホトクト八世が君主(ハーン)となり、ボグド・ハーン政権が樹立しました。そして、1913年には、チベットとの間で、相互承認条約を締結しました。

 統治機構は、清朝の整備したものをほぼそのまま利用して、スムーズに、政府を設置できたそうです。内モンゴルについては、内モンゴル解放軍を派遣し、一時的に大部分を制圧したそうですが、モンゴルの後ろ盾となっていた、帝政ロシアが中国へして撤退を要求し、撤収したそうです。

 915年には、キャフタ条約で中国の宗主権下での外モンゴル「自治」だけが、清の後を引き継いだ中華民国とロシアによって承認されました。しかし、内モンゴルについては、進出を始めていた日本に配慮し、現状維持とされたそうです。

 内モンゴルでも、外モンゴルの独立に呼応する動きがあったそうですが、内モンゴルのかなりの地域が漢人地域になっていて、中国は手放そうとせず、モンゴル人の間で統一行動が取れなかったことなどから、内外モンゴルの合併には至らず、以後別々の道を歩むことになったそうです。

 1917年に、ロシア革命が勃発して、空白が生じると中国は外モンゴルでの勢力回復に乗り出し、1919年には、自治を撤廃しました。しかし1920年、ロシア革命軍(赤軍)と交戦をしていた、ロシア反革命軍(白軍)のロシアの軍人、ウンゲルンが率いる白軍がモンゴルへ侵入して、中国軍を破り、ボグド・ハーン政権を復興させました。

 しかし、ウンゲルンの残虐な行動に人心が離反し、ボドー、ダンザン、スフバートル、チョイバルサンら民族主義者や社会主義者は、モンゴル人民党(後のモンゴル人民革命党)を結成し、ソビエトの援助を求めました。

 これに応じて、ソビエトの赤軍は、モンゴルに介入し、ジェプツンダンバ・ホトクト八世を君主として戴いたまま中国から独立し、モンゴル人民政府を樹立しました。

 こうして立憲君主制国家として、モンゴルは再スタートしましたが、1924年にジェプツンダンバ・ホトクト八世の死去を契機に人民共和国へと政体が変更され、ソ連の支援で、モンゴル人民共和国(社会主義国)が成立しました。

 1924~1928年のダンバドルジ政権の下では、社会主義政策にとらわれない、開明的政策でしたが、ソ連からの圧力によって、中国、ソ連対立の時には、徹底してソ連側の社会主義路線だったそうです。中国との関係は、中ソ対立で、モンゴルがソ連を支持したことで、対立もあったそうです。(ソ連側は、モンゴルを第16番目の共和国としてソ連に加えようとしていたとの説もあるそうです。)

 1929~1932年には、厳しい宗教弾圧、遊牧の強制集団化等急進的な社会主義政策によって、各地で暴動が発生し、多くのチベット仏教僧、富裕遊牧民が暴動の指導者として虐殺されたそうです。

 その後、急進的な政策はやや緩和され、教育や産業の充実が図られたたものの、粛清された国民はかなりの数に上るそうです。

 モンゴルのスターリンと呼ばれ、軍人のスフバートルと共に、1930年代より指導者であったチョイバルサンは、仏教徒や、親ソ派に対立する政治家、文学者などを粛正し、共産党(コミンテルン)の指示で、モンゴル文字を廃止しキリル文字の使用を決めました。

 チョイバルサンは1952年に死去するまで、独裁政治を行いました。後継者であるツェデンバルは、ロシア人の夫人とともに、以後、数十年間にわたってモンゴル人民共和国を支配しました。

 その後、実務派であるバトムンフが書記長に選ばれました。バトムンフはモンゴルのゴルバチョフと呼ばれ、ソ連のペレストロイカに呼応した体制内改革を行ったそうです。

 1989年になると、ソ連や東欧の民主化の情勢に触発されてモンゴルでも反官僚主義・民主化運動が起き、年明けの1990年春には、初めて日本を公式訪問した、ソドノム閣僚会議議長(首相)の決断により、一党独裁を放棄しました。

 また、ソ連の同盟国として親ソ政権が続いてきましたが、1992年に、モンゴル人民共和国からモンゴル国へ改称して、新憲法を制定し、社会主義を完全に放棄しました。ただしこの民主化のプロセスにおいては、国際援助機関の関与により当初の趣旨が曲げられ、アメリカ型の極端な資本主義の導入につながったとも言われます。

 資本主義化後、15年を経過した現在は、貧富の差の拡大が国の問題となっており、また社会主義時代からある官僚の汚職体質は、民主化以後むしろ悪化しているそうです。

 社会主義時代には、帝国主義的として教育が禁じられたかつての皇帝チンギス・ハンについて、政府と国民が総力を挙げて復権に力を入れているそうです。

 紙幣にまで使用されているほどであり、社会主義時代に全く省みられなかった、チンギスハン時代の遺跡の発掘や保存にも力を入れているそうです。

 なお、2006年は、チンギス・ハーンによる“モンゴル帝国”建国800年になり、記念として、入国査証「ビザ」は免除されたそうです。

 日本との関係は、鎌倉時代にさかのぼり、日本に2度大軍で攻めて来ました。(「元冦」又は「蒙古襲来」1274年、1281年)

 1939年にはモンゴルと満州の国境で、満州国に駐屯する日本関東軍と、モンゴル・ソ連連合軍との軍事衝突“ノモンハン事件”が起きました。これは、両国の国境線を巡っての軍事衝突で、日本は敗北しました。

 2002年は、日本とモンゴル国との国交樹立30周年にあたるそうです。